幸せは夜に
映画撮ってます、というと、大抵驚かれる。 たぶんそれは、「絵を描いてます」というような人が指す「絵を描く」という行為が広告の裏にボールペンでアンパンマンを描くようなものではないのと同じように、「映画撮ってます」という人が撮るものは、きっと本格的で、制作費も何十万円もかかっているものだろうという想像力が働くのだと思う。 しかし、わたしが撮っている映画はそんな大層なものではなく、ごくごく個人的なものだ。制作費だってごくごく僅かだし、カメラはサークル所有のものを借りて撮影している。照明器具は使い方がよく判らないから、なるべく昼の、屋外の場面しかないものを撮るようにしているし、小道具だって、持っているものを使いまわしているばかりだ。スタッフと言ってもサークルの友達だし、弁当代は全員自腹。時々監督として飲み物くらいは振る舞ったりするが、それにしたってペットボトルのお茶で、300円もしないし、本当に金欠の時は家で麦茶を煮出して水筒で持っていったりする。コップは各自持参だから紙コップも用意する必要がない。どれをとってもお金はかからない。本格的に撮っている人たちは湯水のようにお金を使ったりもするらしいが、わたしのしている「映画撮影」は、せいぜいそんなものである。 別に映画で食べていこうと思っているわけでもないし、自分にそこまでの才能があるとも思っていない。じゃあ何で映画なんて撮ってるのよ、などと聞かれると少し困るが、例えてみるならば、それはペーパークラフトを作るのに似た楽しみがあるからだと言ってもいいかもしれない。カットごとに撮り分けられたシーンが集まって、一個の物語になってゆく様は、なかなかに感動的だ。ペーパークラフトを切り抜き、組み立てていくうちに、二次元が三次元に変化してゆく様子。映画を編集するという作業はとてもそれに似ている。ただの写真が動き出し、声がつき、音楽がついて流れ出す。自分でやっておいて厚かましい言い方だが、まるで魔法のようだといつも思う。 煙草を吸い始めたのは、映画を撮るようになってしばらくしてからだ。とある事情から入部早々、「煙草」というテーマで短編を撮らねばならなくなったのである。そこで、煙草を吸うというのはどんな気持ちなのだろうと、吸ってみることにした。煙たいのを我慢すれば、案外どうということもなかったのだが、余計に困った。吸えないこともない、ということは判ったが、どうにも吸いたいようにも思わない。映画の内容に生かせなかったのだ。主人公がいつ煙草を吸いたくなるのか判らないのでは仕方なかった。 結局わたしは、高校生の弟が煙草を吸いはじめてなんとなく複雑だ、と思う主人公が煙草を吸う男と一緒に遊園地に行くという内容の脚本を書いた。部室で、煙草を吸いながら書いた。煙草を吸いながら、煙草を吸うってよくわからない、などと考える主人公を書くのは変な感じだった。少し頭がくらくらしたが、それは煙草のせいだったのだろうか、言行不一致のせいだったのだろうか。 ともあれ、それ以来、時折煙草を吸う。 普段、わたしは家庭教師のアルバイトをしている。生徒は中学三年の女の子だ。特別苦手な教科はないのだけれど、全般的に不得手であるからどうにかして欲しい、という、難しい要望を出す子ではあるが憎めない子で、仲良くやっているといっても良かった。 ひょんなことからわたしは、その彼女の脚本を手渡されることになった。前に映画のサークルに入っていると言って感心されたことがあったので、どうもそのせいらしい。自分も書いてみたのだがどういうものだかわたしに見てくれというのである。わたしは困惑して、まあ、とりあえず、見てみるけど、と歯切れの悪い返事をしてノートを受け取った。正直、人にアドバイスできるようなことがあるとは思えなかったが、それを理由に突っ返すのも不義理だ。読んで感想くらいは送ろうと考えたのだ。 タイトルをちらりと見ると、「失冬」とあった。 そしてその晩、友達に電話でその話をしたら興味を持たれた。見てみたいあるから是非読ませてくれと言う。本来、こういうものを勝手に見せるのはいけないことなのだろうけれど、わたし自身、これを読んで人がどう思うのか知りたいところもあったので見せることにした。彼女は信用のおける友人だった。彼女とは高校の同級で家も近い。それに考えてみれば久々だし、会いたかったということもある。わたしは、高校の頃と同じ台詞で彼女を誘った。 「久々に、夜会でも開く?」 「お、久しぶりだね」 彼女も電話口の向こうでなんだか嬉しそうな声を出した。 かくしてわたしたちが急遽会うことになったのは、深夜のファミレスだ。コーヒー一杯で始発まで粘って、というのは歌の世界で、実際のところは、夜食代わりに軽い食事、そしてドリンクバーと甘いもの。地元のファミレスなので、始発が出るような時間まで粘るなんてことは滅多にない。高校の頃はよく、彼女と二人でそうしてすごしたものだった。恋愛のことや進路のこと、見たテレビのことまで、話すことは尽きなかった。二時くらいまで二人して話し込んで、こっそり家に帰るときの自転車を思い出した。自転車で走る、小学校の脇の道。額に受ける少し冷たい風。なんだかとても懐かしい。不思議な気分だった。 わたしは電話を切って、出かける仕度をした。 待ち合わせの時間は、少し余裕を持って三十分後。先に着いたほうが席を取って待つ約束だ。最近、急に寒くなったのでいつもの格好に上に一枚羽織る。窓を開けて空を見ると、雲ひとつない綺麗な星空だった。これは、もしかしたら思ったより寒くなりそうだと考えて、薄いマフラーも巻いた。そして散らかっていた財布だの、手帳だのをもう一度鞄につめなおし、ついでにテーブルを少し片付けた。爪切りを小物入れに戻そうとして、ふと思い出す。 この爪切りって、修学旅行に持っていったやつだったっけ。 わたしの友達はとても頭のいい子だったのだけれど、大学へ進学しなかった。それを聞かされたのは修学旅行のときだ。違う部屋だった彼女がふらりと、爪切り貸してよ、と遊びに来たのだ。爪きりを貸すついでにわたしたちは宿の外へ出た。もう秋になった京都は少し寒く、わたしたちは肩をすくめながら歩いた。 「あたし、大学行かないんだ」 不意に彼女は言って、わたしの顔を見た。わたしは驚いて足を止めてしまった。彼女は数歩先に進んでから、振り返った。 「吉村のやつ、それ言ったら怒ったよ」 笑うような表情だった。吉村というのは、彼女が付き合っていた相手の名前だった。わたしは時折彼が、咲子と同じ大学に行こうと思えば頑張れる、だのなんだのと言っていたのを知っていた。吉村君はあまり勉強のできるほうではなかったが、彼女と付き合い始めて以来成績があがっていた。恋愛の力は偉大だと、二人でよく話したものだった。 「でも、だって、しょうがないじゃん、ねえ」 彼女は言いながら、ほろほろと涙を流した。笑うような表情のまま、彼女は声を出して泣いた。体が震えていた。わたしはしばらく呆気にとられていたが、ようやく足が動くようになって、彼女に歩み寄った。彼女は、泣きながらわたしにしがみつき、わたしは何をすればいいのか判らないまま、彼女を抱きとめた。彼女の髪は濡れたままで、すこしつめたかった。 「平気だよ」 わたしは小さく言ったけれど、大学に行かないということがどういうことなのか、咄嗟には判らなかった。頭がぐるぐるして、判らなかった。わたしは大学に行けと両親から言われていたし、その他の選択肢なんて考えたこともなかったのだ。本当は、平気かどうかなんて判らない。自分のことではないのに、不安で胸がつぶれそうになった。進学しないとしたら、彼女は働くのだろうか。働くとしても、でもどこで?体が冷えてゆくのを感じていた。友達だと言っても、何もしてあげられないことがあるんだ、ということを知った。わたしは彼女の背中をさすり、言葉をなくしていた。平気だよと、もう一度言うには、わたしはあまりにも無責任だった。 結局、吉村君と彼女は、それが原因で別れたようだった。もう三年前の話だ。 「どんなのかと思ったら、失恋の話だったかあ」 友人、深川咲子は眼鏡をなおして背もたれに体を預けた。肩にショールをかけなおして、脚本のノートをテーブルに置く。彼女は高校の時と比べて、随分髪を短くしていた。店内では有線で、昔の歌が流れている。彼女は、ちら、とスピーカーの方を眺めて笑った。大人びた笑みだった。 わたしの生徒から預かった脚本は、彼氏に振られた高校生が、色々あって、吹っ切れて、南半球を目指す話だった。それは秋の物語で、主人公が空港に行くシーンで終わっていた。「失冬」というタイトルは、こちらでは秋でも向こうは春だ、ということに引っかけて、南米に渡る主人公は、今年の冬を経験しないという意味のようだった。失恋と、失冬。洒落たタイトルだ。わたしが高校生の頃、こんなことを思いついただろうか。 咲子はしばらく吟味するように言葉を溜めて、溜めておいて軽やかに肩をすくめた。 「でも、結構面白かったよ」 「良かった」 わたしが安堵の息をつくと、彼女はおかしそうに笑った。 「何、実は沙織が書いたとか?」 「違う、違うよ」 「判ってるよ」 笑って彼女はつん、とノートの表紙を突付いた。 「字が違うもん」 わたしはうっかり本気になったことが恥ずかしくなって、うう、と唸る。 「でも、ホントに撮ったら、どういう映画になるんだろうね」 彼女はコーヒーカップに手を伸ばして、わたしの意見を聞きたいような表情を見せた。言われて初めて、自分ならどうやって撮るか、考えてみた。わたしなら登場人物の配役を誰に頼むだろう。主人公は、脚本を書いた子に任せるとしても、主人公を振るという役柄の男の子にぴったりの知り合いがいただろうか。頭に浮かんだ知り合いの演技している姿を思い浮かべて、すこし微妙な気持ちになる。どいつもこいつも、高校生の役は無理だ。ううむ。 わたしはため息とともに返事をした。 「いい役者が見つかったら、きっと、いい映画になるよ」 「お、役者ですか、ほう、役者、とな」 「何よ」 「いや、何か本格的な用語だなあと思ってさ」 「でも、他に言い方ないじゃない」 「そうだけど、なんかおかしい」 「……なんだよう」 「だって、沙織が、役者とか言ってるんだもんなあ」 彼女は、困るわたしの顔を見てさらに面白くなったらしい。くつくつと、おかしそうに笑う。確かに、わたしは高校の頃、ほとんど本も漫画も読まず、演劇だの映画だのに興味のない高校生だった。彼女がおかしがるのも無理はない。映画撮ってますだなんて、一番妙だと思っているのはわたし自身なのだ。しかし、彼女があんまりおかしそうにするので癪になって、なんとか言い返そうという気になってきた。しかし、うまい切り返しが思いつかない。そうしているうちに、彼女は笑いの余韻を引きずったままカップの取っ手を撫でて、話題を進めた。手のひらを上に向けて、ノートを指さす。 「これさ、話の真中辺で主人公が、振られるじゃん」 「うん」 「なんかそこのあたり、ちょっと展開が急ぎ足っぽくない?」 「あ、それはちょっと思ったかも」 「何か、一呼吸欲しいよね。なんか、一休みっていうか」 「うーん」 アイデアをひねり出すような腕組みで、彼女は言葉を選ぶようにして言う。 「ここは、やっぱり、別れを切り出すまでに、男が躊躇う、間、みたいなものが欲しいかも」 「お。さすが」 「でも、なんだろ、どういう風に?どんな風に間を繋ぐ?」 自分で言っておいて彼女は、軽やかに話題を放り投げた。わたしは苦笑してメロンソーダのグラスに口をつける。相変わらず、かわってないなあと思うとなんだか嬉しくなる。彼女の、無責任なんだか何だかわからない、素敵な、この軽やかさ。 「ところでさ」 コーヒーのおかわりを注いで戻ってきた彼女が、つんつんと頭上を指差した。 「この曲、懐かしいね」 意味ありげな表情。わたしは気付いて少し笑った。それは、やっぱり昔の曲のカバーで、缶コーヒーのCMに使われていた曲だった。カバーながらも、なんだかとても売れた曲だ。実はこの曲について、わたしたちはちょっとした思い出がある。 高校の頃、文化祭の合唱コンクールの自由曲でこの曲を歌わないかという提案が持ち上がったことがあったのだ。提案したのは、クラスで最も可愛らしいという看板を背負った女生徒だったが、思わぬことにその提案に反旗を翻した生徒がいたのである。横島可南子、というのがその子の名前だった。あまり目立つ方ではないが、目立たない方でもない。そして、その彼女の言うには、この曲を聞くと辛いことを思い出してしまうからやめてほしい、とのことだった。当然のように、意味の判らない理由でやめてほしいなんて納得できない、と息巻くナンバーワンと、しどろもどろになって泣き出す横島可南子。ついには彼女の親友がしゃしゃり出てきて、それは可南子の最近別れた彼氏が好きだった曲だったからどうのこうのと内情を暴露する始末で、一時ホームルームは大変な騒ぎになっていた。まるでつかみ合いに発展しそうな勢いだったのだ。わたしはその騒ぎの中に巻き込まれないよう目立たないようにクラスの隅で一人、いやだなあ、と思っていた。 そんな中、高らかに携帯電話の着信メロディが鳴り響いた。そのメロディは、今まさに議論の渦中になっている曲だった。その電子音は、まったく脳天気にCMのメロディをなぞって、随分長く続いた。クラス中が水を打ったように静まり返るなか、サビのメロディが何度も続いた。音が止むや否や、可南子は大きな声で泣き出すし、男子はげらげら笑い出すし、さっきまで彼女を責めていた子たちまでが真っ赤な顔をして、ふざけるのは誰なの、と声を荒くした。もちろん誰も名乗り出なかった。 しかし結局それをきっかけに話し合いは急速に収束の方向へ進み、課題曲は井上陽水の「少年時代」に決まった。誰の携帯電話が鳴ったのかは、最後まで判らず終いだった。 ちなみに、「あの時の着信音、実はあたしなんだよね」と、咲子が告白したのは、文化祭が終わって随分してからだった。そのときも、わたしたちはこうして二人で夜のファミレスにいた。思いもよらぬ告白に、二人して死ぬかと思うくらい笑って、店の人にいやな目で見られた。それは懐かしい思い出だ。 有線でかかるその曲を聞きながら二人で思い出し笑いをして、息をついた。 「あの頃は、毎日下らなくて、面白かったよねえ」 人差し指で頬をなぞり、唇の縁で指を止めた咲子は思い出すような目をした。 「沙織、時々懐かしくなることない?」 「あるよ、そりゃあ、あるよ」 答えながらわたしはなぜだか、今付き合っている相手のことを考えた。大学で知り合った、東北出身の男の子だ。付き合いはじめて、もうすぐ一年になるが、わたしも彼も、お互いのことをあんまりにも知らない。わたしと咲子にはこうやって、有線の曲を聞くだけで、涙が出るくらい笑える思い出があるのに、同じことを彼とは共有することができない。勿体ないような、変な感じだった。わたしの記憶は、色々な人の中に散らばっている。かけらづつ、飛び越えるみたいに足跡を色々な人の中に残して、そして今のわたしがあって、今の咲子がある。なんだか、こうして二人でいることが奇跡のように思えた。 「高校のころのことを考えると、なんだかこうやっていられるのって不思議」 咲子は同意したように口の端で笑って、頬杖をついた。 「でも、あの頃に戻りたいかって言われたら、もう戻れないねえ」 「そうだねえ」 わたしたちはお互いに、おそらくは別々のことを思いながら、お互いの顔を見つめた。咲子の顔は、化粧のせいか、輪郭が少しとがって、いかにも頭の良さそうな顔になっていた。高校の頃と較べると、段違いに大人びて見える。でもその内側にあるものは変わらない。骨格も、眼球も、筋肉も、脳髄も、そして何より、心も。わたしは、彼女を知っている。知っているのだ。 不意にわたしは、彼女のことを好きだと思った。妙な意味ではなく、わたしはわたしの友達を愛している。そのことを、はっきりと自覚した。 「ねえ、脚本の話だけど、男の子が缶コーヒー飲むってどうかな」 不意に咲子が、思いついたように指を立てた。 「話切り出す前にさ、なんか不意にこう、自販機の方へ歩いていって」 「缶コーヒー買って?」 「そう、そんでもちろん、買うのは自分の分だけで」 「隣に座って、自分だけ飲むんだ」 「そう、そうそうそうそう」 二人してテーブルの下で、足をばたつかせて笑う。 「そんなことされたら、さすが高校生でも言う前に判るよね」 「いい話か悪い話か、二択で」 「いい話はありえないし」 「消去法で決定打」 「振られる前に振れ!」 「明日はない!」 わたしたちは会話を冷ますように息を吐いて、背もたれに体を預けた。コーヒーに口をつけ、前髪を払って、咲子は、ふ、と笑った。 「あたし最近、恋愛してないよ」 そしてその本意を補正するように、控えめな調子で、別にしたいと思うわけでもないんだけど、と付け足す。 「しかし最近の高校生は凄いなあ。あたし、失恋したからって南米には行けないよ」 「うん」 「仕事もあるし、何よりそんなにエネルギーがなくて」 彼女は、困ったように、自嘲するように笑う。同意していいものかどうか、わたしはしばし逡巡した。わたしにはエネルギーがあるのだろうか?彼女より時間を持ってはいるが、果たしてそれとエネルギーは同義なのだろうか? 「でも、エネルギーがあった頃だとしても、そんなこと思いついたかな。謎だ」 咲子は思いついたように手のひらを広げる。 「結局、あたしは地道に、農耕民族として生きていくのが向いてるのだね」 わたしは、つられて少し笑う。 「……咲子、やっぱり仕事、忙しい?」 「何、急に」 「ううん、ただ、忙しいのかなあって思って」 「まあ、そうだなあ。気を抜くと、なめられちゃうからねえ」 女は大変だ、と軽い様子で笑って、彼女はコーヒーを飲み干した。 その後、お互いの近況や、珍しい友人を町で発見した話などに花を咲かせつつ、結局一時過ぎまで居座った。ファミレスを後にする時に「そういうわけで」とお互いに、夜会の閉会を確認した。外に出て寒そうに首をすくめ、もう秋だねえと咲子は街灯の向こうに顔を向けた。わたしは自転車を押しながら、しばらく彼女と一緒に歩く。別れ道に来て、彼女はもう一度ショールを巻きなおした。 「そういうわけで、つっても、帰りの方向一緒なんだもん、笑うよなあ」 「ねえ、咲子」 「ん?」 わたしは、まるで彼女を抱きしめたいような、奇妙な衝動におそわれた。街灯の下で見る彼女の頬は白くて、本当に奇妙な引力があった。わたしは、少しだけ未来を想像する。もし、このまま彼女を抱きしめようとすると、自転車が倒れる。きっと、がしょあ、と大きな音がする。そうなったらきっともう戻れないだろう。その音はきっと、わたしたちの関係を、わたしの心臓を決定的に変えてしまう。果たして、そこまでしてわたしは彼女に抱きつきたいと思うのだろうか?そう考えたら、戦意が萎えた。時折、友情は手におえないくらいにまで膨れ上がる。厄介だと思った。わたしは問題の衝動を押さえ込むことに成功し、彼女に微笑みかけた。そして、少し大きな声を出す。 「今度、焼肉行こうぜ!」 咲子がにんまりと笑う。 「いいな!」 そしてわたしたちは手を振って別れた。 |