はつこい以前


 唐突だが、彼女の前にあるのはゲーム機だ。それは任天堂が1983年の7月15日に発売した、ファミリーコンピュータである。作られてからもう十年近くが過ぎたその機械は、ところどころが日に焼けてなんとも暖かい風合いになってしまっている。暖かい風合いというよりは、むしろはっきりと薄汚れていると表現しても構わないかもしれなかった。

 彼女は11ヶ月前、14歳になった。つまり、あと一ヶ月で15歳である。ファミコンが発売された時、彼女はまだ幼い子どもであった。
 彼女がいるのはつい先月まで兄のものだった部屋だ。
 七つ違いの彼女の兄は先月結婚して家を出たが、その結婚は家族全員の祝福を受けるのに間に合わなかった。なんとか婚姻届提出の日までに祝福を間に合わせたのは、彼女と、彼女の祖母だけであった。彼女の父と母は、息子の結婚をいまだ祝福していなかった。そういう事情で兄の荷物はまだ、ほとんど手付かずで残っている。
 先日、その兄から電話がかかってきた。聞けば、部屋から持って来てほしい本があるという。散々揉めた末にまるで出てゆくように結婚したという癖に気楽なものだ、と思いながら彼女はそれを聞いた。兄は、届けてくれれば飯を奢るよ、と彼女に頼んだ。別に夕飯に釣られたわけではなく、兄の新居の様子を知りたいということもあって承知し、学校がはやく終わった午後、彼女は制服のまま、めったに入ったことのない兄の部屋に足を踏み入れた。
 思ったよりも部屋はきれいだった。流石の兄も出てゆく前に掃除したらしい。別に男臭いというわけではなかったが、とりあえず窓を開けて彼女は空気を入れ替えた。季節は夏から秋になろうとしていた。向かいの家にある柿の木が、もうずいぶん実を赤くしていた。
 余計なところは触るなと言われていたのだが、構うものかと思い立ってベッドの下を漁ってみた。肌色の写真がいっぱいの雑誌が二冊出てきたのを確認すると、彼女は苦笑いをして元に戻した。それ以上漁っても、意味のある収穫が望めそうになかったので、彼女は教えられたとおりの棚を探し、目指す品をすぐに見つけ当てた。
 その本を弄びながら、彼女はふと、それを見つけたのである。本棚の隣にあるテレビの上。そこへ無造作に置いてあるその機械は、まるで大きな果物のように見えた。

「ファミ、コン、だ」

 口に出すと、その機械に対する興味が湧いてきた。
 彼女はそれまで一度も、ゲームというものをしたことがなかった。兄がそれを持っている事は知っていたが、頼んでも貸してくれそうになかったので、あらかじめ意識から締め出して、興味を持たないようにしていたのだ。
 彼女だって、クラスの間でファミコンが流行していた時代を過ごしてきた。男子に限らず、全日本的に流行していたのだ。知らないほうがおかしい。もちろん今までファミコンに接するチャンスがないわけではなかった。
 たとえば一度、友達の家に集まって、男もすなるテレビゲームなるものをしてみよう、という企画が立ち上がったことがある。しかし冗談のようだが彼女は当日、不意に盲腸になってしまって参加できなかった。幸い、手術にまでは至らなかったが、幾日か学校を休んだ。
思い返してみると、彼女がファミコンに対して意識的に距離を置き始めたのはその頃だったかもしれない。病院のベッドの上で、これはきっと縁がないということなのだ、と半ば言い聞かせるようにして彼女は思った。そう思ってみると、それほど切羽詰ってファミコンがしたいわけはない。一度ゲームというものがどういうものなのか触ってみたいという気持ちはあったが、まったく未知のものだけに、そこまで強い衝動にはならなかった。見舞いに来てくれた友達は彼女に気を遣ったのか、「結構面白かったけど、そこまでハマる感じじゃないよ」と感想を述べた。彼女とファミコンのささやかな接点はそこで終わった。

 ある決意を秘めて彼女は早足に階段を下り、兄に電話をかけた。しかし、電話に出たのは兄の結婚相手だった。
「あの」
 彼女は言いかけて、言葉に詰まってしまった。考えてみれば、まだ夕方も早いうちだ。兄は仕事に行っているはずだった。兄嫁の、もしもし、と問い掛ける声に彼女は我に返る。
「あの、蓮子です。圭一の妹の」
「あら、まあ、この間は、どうも」
「いえ、こちらこそ、ごちそうさまでした。それで、あのう」
 彼女は少し迷って、それでも切り出すことにした。
「翠さんは、ファミコンってやったことありますか?」
「ん?」
「私、ファミコンをこれからやってみようと思うんだけど、やりかたが判らなくって」
 兄嫁は電話口で、ほう、と息をついた。
「圭一くんと一緒にマリオとかならやったことあるんだけど、役に立てそう?」
「ええと、テレビにつなぐやりかたとかから教えて欲しいんですけど」
 うわあ、と、兄嫁は嘆くように息を吐いた。
「ごめんねえ、あたし、機械とか詳しくないのよう」
 電話口のむこうで兄嫁が困っているようすが見えるようだった。兄嫁は美しい人だった。きっと、そのほそい首をすくめて、天井を仰いでいるに違いない。なんてかわいらしい、女らしい仕草なんだろう。彼女は兄嫁の仕草を想像して、ぼんやりとした劣等感を抱いた。
「いえ、あの、こちらこそごめんなさい、変な電話して」
 振り切るように彼女は頭を振った。
 帰ってきたらかけなおすように言おうか?と兄嫁は提案しかけ、依然夫が夫の両親と仲たがいしたままだったのを思い出して少し、しょげた様子をみせた。そのまま黙ってしまいそうになった兄嫁に、いいですたいしたことじゃないんですからファミコンくらい、と彼女は慌ててフォローをした。おまけに、勝手にファミコンをいじったことがばれたら何を言われるか判ったものではない。
 いつかうちの両親も折れますよ。翠さんのことを嫌いなわけじゃないんですから。悪いのはうちの兄なんですから。
 そう言って彼女は電話を切った。少し疲れた。

 屈託のない挨拶で電話を切ったついでに、彼女は電話台の下にぺたんと座った。
「翠さんはいいなあ」
 当然だがそれは別に、兄と結婚したということが羨ましいわけではなかった。彼女は、己にはかわいげというものが決定的に欠けていると信じていた。彼女の思う「かわいげがある女性」というものは、第一にはなやいだ声をしていることが条件であり、以下、次々と、色が白い、だの、笑うときは眉が八の字になるだのと細分化された幾つもの条件があった。彼女は、短い兄嫁との会話の中でその項目に「機械に弱い」というものを付け加えた。
自分もそれに当てはまっているということは、あまり気休めにはならなかった。彼女はげんなりしてうなだれる。兄嫁と似た部分があることで、余計異なっている部分に目が向いてしまったらしかった。彼女はしばらく電話台に頭をもたれかけていたが、やがて立ち上がった。別に彼女は自分のことを醜いと思っているわけでも、嫌っているわけでもなかった。ただ、兄嫁のような「かわいげのある女性」に憧れているだけだった。
 彼女は兄の部屋へと戻った。こうなったら自力でファミコンの接続に挑戦してやろうと思ったのだ。ゼロからの出発ではあったが、なせばなるもので、十五分ほど端子やコンセントとにらめっこした末にいよいよ接続の運びとなった。
 彼女はそのささやかな成功に満足して窓を閉めた。これから精密な作業をするのだという気負いのようなものがそうさせたらしい。
 最初はなるべく、有名なソフトで遊ぼうと思った。有名なソフトならば、きっと面白いに違いない。彼女はカセットが並んでいる籠の中から、適当なものを選び出す。がちゃがちゃとプラスチックをかき回す音が粗雑に響く。まるで空き巣をしているような気になって、少し笑った。
「これにしよう」
 彼女は黒いカセットを抜き出して頷いた。ラベルには「キングコング2」と書いてあった。キングコング。それなら知っている。映画にパート2が出ているかどうかは知らなかったが、これだけ有名なタイトルならきっと面白いに違いないと思った。しかも、副題が「怒りのメガトンパンチ」である。メガトンパンチ。ついぞ聞かなくなった言葉だ。
 しかし一体どういうゲームなのだろう。何かで見たキングコングは確か、女の人をさらってエンパイアステートビルに登っていた気がする。そういうことをするゲームなのだろうか。
彼女は息を止めて本体にカセットを挿しこみ、そして電源を入れた。何もうつらないのでがちゃがちゃとボタンを押すと、タイトル画面が現れた。彼女はコントローラーに目を落としてどれがどのボタンかを確認し、スタートボタンを押した。

 ゲームをはじめてみても、何をしていいのかよく判らなかった。
 画面内にエンパイアステートビルは見当たらなかった。ゲームが始まると、彼女のキングコングは荒野に立っていた。ここから歩いてニューヨークまで行くのだろうかと考えると、それは途方もない旅路のように思った。しかしキングコングは何のためにニューヨークへ向かうのだろう。女性を掴んでビルに登る為だろうか?奢りたかぶった文明に鉄槌を下す為だろうか?どちらにせよ、それは途方もない旅だった。目的も判らず、ただ、怒りとメガトンパンチだけを振り回して一直線にコングが都会へ向かうのだとしたら、それはなんと雄大で悲壮なテーマなのだろう。そういえばキングコングは荒々しい映画だった。
 彼女はしばらく画面を見つめ、それから操作を始めた。
 ボタンを押すとそれに対応して、画面の中のキングコングがジャンプをしたりパンチを出したりするのは面白かった。おお、飛ぶかね、などと彼女は独り言を漏らしながらコントローラーを操作していた。飽きる間もなく彼女のコングは不定形の生物や戦車に触れ、怪我をして、倒れていった。巨大な獣が死ぬにしては気の抜ける音楽がして、コングはくるくるまわって倒れた。倒れた時に聞こえたのは地響きではなかった。
「ああ」
 彼女は嘆息して、天井を仰いだ。だらしない座り方をしていたことに気付いて少し膝を直した。何度かの挑戦にもかかわらず、キングコングは倒れた。倒れてしまった。ニューヨークへ辿り付く前に物語は終わってしまった。もう一度最初からやり直そうという気にはならなかったが、満足かと聞かれれば、満足したと答えても良かった。時計を見ると、すでに小一時間が過ぎていた。
 男の子たちは、こうやって遊んでいるのか。彼女は座ったままずりずりと移動して兄のベッドに背を預け、幾人かの同級生の顔を想像した。休み時間のたびに、楽しそうに会話する男の子たち。げらげら笑ったり、叩き合ったりしているのは、こういう余暇に立脚していたのか。彼女は口を曲げて、納得したように頷いた。

 先日、告白されたことを思い出した。
 相手は隣のクラスの男子だ。どこでどう彼女のことを知ったのか、直接呼び出されて告白されたのだった。少年は藤沢と名乗ったが、話をしたおぼえはなかった。あまり大きな学校ではないから、顔くらいは知っている。しかし、ほとんど知らない相手ではあった。
「俺、君と付き合いたいんだけど」
 藤沢少年は単刀直入に彼女に告げた。あまりに突然だったので彼女は戸惑い、相手の顔を見た。少年の頬に、木の葉の影が落ちていた。軽く茶色に染められた髪は日の下で見たらきっときれいだろうと彼女は思った。別に軽薄そうな顔ではない。女生徒にもてそうな感じだが、知的な顔つきをしていた。そんな男子がどうして私に声をかけたのだろうと彼女は不思議に思った。女の子なんて、あなたなら幾らでも選べるでしょう。そして、その疑問は視線を通して彼に伝わったようだった。
「本間さん、誰か好きな奴とか、いるの?」
 少年は彼女の視線を避けるように続けて質問を投げた。
「なんで、私を」
 彼女は逆に質問を返した。少年はその質問を予想していたようであった。別にどぎまぎするわけでなく、慌てるわけでもなく、彼ははっきりと言った。
「好きなんだよ」
 彼女はその返答を吟味した。多分、この人は嘘を言っていないだろうな、と思った。
じわじわと足元から、思いもよらない相手から自分が告白されているという事実が這い登ってきた。知っている相手であれば、相手のことを好きか嫌いかある程度判断できる。彼女は、もしかしたら彼女のことを好きなのではないかと目されるクラスの男子を思い浮かべた。あいつが相手だったら私はなんと答えただろう。そこまで考えて彼女は慌てて打ち消した。初対面とはいえ、自分のことを好きだと告白してきた少年が目の前にいるのだ。他の人間のことを考えるのは彼に対する冒涜のような気がした。
 そうだ、初対面なのだ、と彼女は改めて思った。
私にはこの人がどういう人なのか判らない。やはり、それでは返事をすることなんてできない気がした。けれど、この人は違うクラスで、それまで話をしたこともないような相手のことを、好きになったという。この人は、私のどこに興味を持ったのだろう。どうして好きになったのだろう。
 心臓を静めるために一度大きく息を吐いて、彼女は尋ねた。
「わたしの、どこが好きなの?」
 うっかりするとうわずってしまいそうだったので、必要以上に低い声になった。恋愛には縁がないと思っていた自分の身にもこういうことが起こりうるのだと思うとそわそわした。初めて言葉を交わす相手に、私のどこが好きかと問うている状況そのものが、ひどく奇妙なもののように思えた。
 一方少年の方も、彼女の具体的な追及には面食らったようだった。彼は考え込むような表情になってしばらく黙り、やがて躊躇いがちに、顔とか、声とか、と返事をした。
 彼女はそれを聞いて、何故だか複雑な気持ちになってしまった。誉められた部分が不満だということではなかった。誉められたのは嬉しい。彼女も、自分のからだが好きであった。たとえ一部分だとしても、自分の好きなものを好きだといわれるのは嬉しかった。
 しかし誉められて逆に彼女は申し訳ないような、悲しいような気持ちになったのだ。何より悲しかったのは彼女が、この少年と付き合いたいと思えない、ということだった。別に第一印象が悪いということではない。印象はむしろ良いと言ってもよかった。付き合いたいと思えないのは彼の人間的魅力云々とは関係がなかった。付き合う、ということにぴんと来なかったのだ。
 彼女は黙ったまま、どうにかしてそんな自分を説き伏せてみようと試みた。
 きっと友達は、勿体ないから付き合ってみればいい、と言うのだろう。けれど、相手のことを好きだか嫌いだかも判らないのに付き合うというのは不誠実ではないだろうか。相手が自分のことを好きだと言ってくれているのに、そんな不誠実なことは言えないと思った。相手の気持ちに誠実に向き合うのならば、付き合う気になれない、ときちんと言うべきだと思った。相手のことをきちんと考え、誠実に返事をしようと思ったら、付き合えないというより他がなかった。論理の落とし穴にはまっているような気がしたが、付き合うつもりになれないということだけは確かだった。
「私は、やめたほうがいいよ」
 うっかりそんなことを言ってしまうと、藤沢少年は間髪をいれずに、何で、と聞き返した。
 彼の表情は、逆にとてもいぶかしげだった。返事が出来なかった。彼が、訳わからないと思うのは当然だった。彼は口篭もる彼女を、もどかしげに待っているようだった。立っているのが辛いくらいの重苦しい沈黙が流れた。彼女は暗澹たる気持ちになった。一般の女の子たちはどうやってこの場をしのぐのだろう。テレビや漫画みたいに、好きです、ごめんなさい、という当意即妙の呼吸で断わるにはよほどの事前の準備か素養が必要なのだと思った。なんと言えばいいのだろうと考えていると少年は、追及するように言った。
「誰か、付き合ってる奴、いるの?」
 思いもよらない言葉に彼女はまったく当惑して、しばらく黙ってうつむいた。どうしてもうまく返事が出来そうになかった。付き合っている相手などいない。今まで一度だって異性と付き合ったことなどない。しかし、そう答えてしまっては、どうして付き合えないのか説明できない気がした。息を詰めた沈黙の後、卑怯にも彼女は、頷いてみせた。
「……そうか、付き合ってる奴、いるのか」
 少年は、視線を斜め下にはずし、しばらく黙った。ごめん、と呟いて、少年は彼女に背を向けた。


 彼女は兄のベッドにもたれたまま、小さな声で呟いた。
「私は、うそつきだ」
 彼女は目を閉じた。つけっぱなしのファミコンから、オープニングの音楽が流れてきていた。かわいげがないだけでなく、うそつきだ。目を開き、画面に目を向けた。メスのキングコングが助けを求めていた。キングコングは、ニューヨークを破壊する為ではなく、伴侶を救う為に旅をしていたのだ。
 軽い衝撃だった。ゲームの中のキングコングでさえ、愛だとか恋だとかそういうものを理解している。兄だってそうだ。翠さんも、両親だってそうだ。それなのに私はどうだ。どうだというのだ。彼女は体を起こし、ゲーム画面を見つめた。
 オープニングを見終えて彼女はファミコンの電源を切った。腕組みをして、彼女は件の少年の顔を思い浮かべた。人生は本当に理不尽だ、と思った。彼も、私なんかじゃなくて他の人を好きになればよかったのに。どうして私なんかを好きになったのだろう。
そして首を振り、ファミコンを片付けて彼女は着替えることにした。時間を持て余したので散歩にでも行こうと思った。

 散歩先で、クラスの男子に出会った。
 散歩と言っても、少し足を伸ばし、低い山のてっぺんにある公園まで歩いたので、そんなところで知り合いに会うとは少し意外だった。その時、公園には母子連れが三組いた。子どもたちは丸太で出来た遊具で嬌声を上げてはしゃぎ、母親たちは子どもたちに時折目を向けながら、楽しそうにお喋りをしている。それを横目で眺めながら、彼女が自販機で飲み物を買っているときだった。ふと目をやると、ふもとへ続く道の一本から知った顔が登って来た。それは岩井田というクラスメイトだった。
 彼女と岩井田少年は、どちらかといえば親しい方だった。彼は生徒会で書記を勤めている。彼女は生徒会の役員ではなかったがクラス委員であったため、時折学校の用事で一緒に仕事をすることがあったのだ。実際、岩井田少年のてきぱきした仕事ぶりや眼鏡の趣味のよさなどから、彼女は彼のことを「気持ちのいい奴」と評価していた。
 そして、彼女がすぐ彼に気付いたように、岩井田少年もまたすぐに彼女に気付いたらしかった。
「よお、本間、こんなとこで何してんの」
 岩井田少年は肩から下げた鞄を左手に持ち替えながら彼女に声をかけた。
 彼も家で着替えてから来たらしく、涼しそうな格好をしていた。ハーフパンツから伸びる脛があまりにほっそりしているので彼女はすこし驚いた。返事をためつつ彼の方へ歩み寄り、大きな声を出さなくても聞こえる距離になってから彼女は答えた。
「散歩してんの。岩井田は?」
「俺?人生の洗濯」
 人懐こそうな笑顔を見せながら、彼は数歩彼女に近付き、桜の木を囲むように作られたベンチに座った。促されるわけでもなく、彼女も少し間をあけて隣に座った。
「何、人生の洗濯って」
「駄菓子食って、人生の洗濯すんの」
 言って彼は鞄から、がさがさ音を立てて駄菓子の群をつかみ出した。うまい棒だのヨーグルだの、びんラムネやチョコ円盤まで。雑多な駄菓子だ。様子から察すると、まだ鞄の中には駄菓子が残っているようだった。彼はベンチに広げた品の中から、ほら、とひとつの包みを彼女に差し出す。
「何、これ」
「一個やるよ。うまい棒の中ではたこ焼き味が一番うまいと思うんだよね、俺」
 怪訝そうな顔になりながらも、彼女は受け取り、しげしげとそれを眺めた。駄菓子と岩井田少年はなんだか、うまく結びつかない。彼が買い食いをしているというのもあまりぴんと来なかったし、なにより、想像していた彼の食事の嗜好はこういう、ジャンクフードだという感じではなかった。別に、私の中の岩井田はこうだ、という明確な何かがあるわけではなかったが、今まで知っている彼のイメージには今ひとつ、ぴったりこなかった。ぼんやりしたイメージではあるが、もっと優等生的な感じだと思っていたのだ。少なくとも、買い食いをしそうなタイプには見えなかった。彼女自身あまり甘い物が好きでないので余計違和感を覚えたのだろう。彼女は言葉を選びながら質問した。
「これを食べると、人生の洗濯になるの?」
「そうだよ」
 冗談のような言い方だったので、彼女はどんな顔をしていいのかわからなくなった。複雑な顔をしていたらしい。彼女を見て岩井田少年は、ししし、と子どものように笑った。
「なんだよ、好きなもの食うって、大事だろ」
「駄菓子好きなの?」
「まあね」
「それは、なんていうか、意外だなあ」
 思ったとおりをそのまま口にすると、彼は軽く心外そうな顔をしてみせた。
「本間だって、そういう服着るなんて意外だと思うぜ」
「何が?」
「もっと女らしい格好すると思ってたもん」
「……」
 彼女は、自分の服装を改めて確認する。ジーンズにチェックの半袖という姿だった。確かにお嬢様風ではなかったが、別にそこまでマニッシュな格好というほどでもない。何か言い返そうと口を開くと、さえぎるように岩井田少年が手を振った。
「いや、別にその服が悪いってわけじゃないんだ」
「や」
「要は、アレだ、人それぞれ、誤解されつつ生きてるってことだよ。別に、本間の服とか馬鹿にしたわけじゃない。似合ってると思うよ」
 悪意や敵意のある顔ではなかった。言い返すべきことを見失って彼女は黙った。
 なんだか、思いもよらないことを言われた気がした。岩井田少年は彼女がコメントするのを待ってはいない。彼は、彼の考えを口に出しただけだ。岩井田は大人だ、と彼女は思った。 そして彼女はもう一度彼の発言を心の中で繰り返し、そして記憶した。

 誤解されつつ生きている。

 彼女は、藤沢少年のことを思い出した。彼も、私のことを誤解していた。藤沢牧人はきっと、私を良いほうへ誤解していたのだ。きっと、私は彼に誤解されていたのが嫌だったのだ。私は人に好かれるほど素敵な人間ではないのに好きだと言われたのがいやだったのだ。あのとき、悪く誤解されるのも苦しいけれど、良いほうへ誤解されるのだって同じように、つらいということを彼女は知った。
 彼女はしばらく考え、それから返事をした。
「岩井田は時々、いいことを言うね」
「そうかな」
 彼はまったく気にした様子もなく、景気よく駄菓子を平らげてゆく。
「これ、買うよ。幾ら?」
 渡された駄菓子を振って見せると、岩井田少年は嫌そうな顔をした。
「いいよ、一本くらい。融通きかねえなあ」
「でも」
「じゃあ口止め料ってことで、どう」
「口止め料?」
「いや、まあ、それは」
 言いながら岩井田少年は少し参ったような顔を見せた。しばし説明しようかどうか迷ったようだったが、思い切ったように頷いて、ニッキ水の蓋を開けながら口を開く。
「うち、母親がケンコーキョーなんだよ」
「ケンコーキョー」
「健康きちがい」
 短く言って彼は駄菓子をいっぱいにほおばり、派手な赤色のニッキ水を口にした。まるで、健康、という言葉を口にしたせいで口が汚れたとでもいう風な勢いだった。「健康」という言葉で汚れた口を、駄菓子で清めているような、そんな印象だった。
「うちの母親、駄菓子だのハンバーガーだの、親の仇のように憎んでるんだ」
「へえ」
「そうあっさりうなずいてくれるなよ。結構、重要な問題なんだぜ。うちじゃコーラの一滴だって飲めないんだぜ」
「徹底してるね」
「だから時々俺、母親に隠れて駄菓子買って、こうやって、死ぬほど食うの」
 岩井田少年は、少し遠い目をした。
「そういう息抜きがあるから、普段真面目にやってられるんだよな」
 それは随分大人びた表情だった。つい、見とれてしまって彼女は慌てて視線を逸らした。岩井田少年は手に残った駄菓子を口に放り込み、それからまた、ししし、と笑った。
「そういうわけで、それやるから、俺のささやかな息抜き、うちの母親に密告するような無慈悲な真似は止めろよな」
「別にくれなくたって言ったりしないよ」
 つられて彼女は笑った。
「だって、私岩井田のお母さん知らないもん」
「まあ、いいから食っとけって」
「でも」
 岩井田少年は、うるせえなあ、と呆れたような声を出した。
「本間、根っから真面目なんだな」
「そういうことじゃなくて」
「いや、逆に少し感心した」
「待ってよ」
 彼女は少しむきになって、貰った包みをやぶいた。甘辛そうな色をしたスナックを齧る。案外嫌いな味ではなかった。一口目を、じっくり味わうわけでもなく飲み下して彼女は、ごちそうさま、と、つんのめるように表明した。
「私、駄菓子も食べるし、ファミコンだってやるよ」
「へえ、意外だ」
「本当だよ、キングコング2とか」
 それを聞くと、一拍置いてから岩井田少年がおかしそうに笑い出した。
「随分古いソフトで遊んでるんだな、しかも、マイナーな」
 愉快そうに笑う彼の横で、少しきまりの悪い思いをしながら、貰った駄菓子をかじった。今度は少し味がわかった。そして彼女は、やはりあれは古いソフトだったのかと思った。ひとしきり笑った後、岩井田少年はまだすこし楽しそうな顔をしながら、ニッキ水を飲んだ。
「俺、女はファミコンとかしないのかと思ってたよ」
 確かに、つい数時間前まではその指摘は正しかった。しかし彼女はあえてそのことに反論をしないことにした。また笑われそうだったからだ。彼女は控えめに、あんまり沢山はしないけどね、と言うにとどめた。どうやら岩井田少年はそれなりに詳しいようで、いくつかのソフトの名前を出して、あれはやったか、これはどうだ、と彼女に尋ねた。彼女がどれもに首を振ると、彼は少しがっかりしたように、ホントにあんまりやらないんだな、と肩を落とした。
「でも、どれも結構興味はあるんだよ」
 まるで慰めるように彼女が言うと彼は、まあいいや、と再び駄菓子を鞄からつかみ出した。結構な量だった。まるで夕飯のような量だ。
「これ、全部一人で食べるつもりだったの?」
「ああ、ちょっと、買いすぎたなあ」
 彼は頭をかいて、来た道のほうに目をやった。
「今日は、ちょっとやなことあってさ」
「ふうん」
「ま、いいんだけど」
 軽い調子で彼は鞄の中身をすべてベンチにあけた。色とりどりの駄菓子が雑然と並ぶ。悪趣味のような、芸術的のような、不思議な様子だった。
「残ってもつまんないから、遠慮なく食ってくれよ、やるよ」
 まったく好意的な申し出に彼女はしばらく逡巡した。こういう場合、どういう返事が一番気の利いたものだろう。
「ちょっと待ってて」
 言い残して彼女は自販機へ走り、並んでいるサンプルの中から、一番体に悪そうなものを選んだ。足早にベンチへ戻る。
「じゃあこれ、お礼」
「くれんの?…って、おっ、ジョルトコーラじゃんか。カフェイン二倍、すげえ」
「体に悪そうでしょ」
 彼女が微笑むと、彼はまた一拍置いてから笑った。
「本間、本当に真面目なんだな」
「失礼な」
 彼女は少し憤慨して、ベンチに腰掛けた。

 それからしばらく、生徒会の話や、堅物の先生の話などをしながら駄菓子を食べた。
 それからやがて、暇がない、という話題になって、岩井田少年が思い出したように切り出した。
「そうだ、本間、スーパーファミコン買うの?」
「なにそれ」
「今度発売されるんだよ、ファミコンのすごいやつ」
 しらねえの?と、彼はもうひとつ別の駄菓子を彼女に勧め、彼女は少し考えてから素直に受け取った。缶ジュースに見合う分より食べているような気がしたが、くれるというのだ。貰っておこう。
「ファミコンのすごいやつ」
 鸚鵡返しにつぶやいて、彼女はその形を想像した。銀色に輝くファミコンや、巨大なファミコンを想像した。コントローラーが沢山ついていたり、ソフトの挿し口がいくつもあったりするのだろうか。
 いまひとつぴんと来なかったが、値段によっては買ってみてもいい、と彼女は思った。普段あまり買い物をしないから、貯金はそれなりにたまっているのだ。
「俺は、まだ当分無理っぽいんだよなあ、推薦落ちたし」
 悲しげな声をあげる彼の横で彼女は肩をすくめ、買ってみてもいい、と言うのを思いとどまった。そんなことを言ったら、この同級生を羨ましがらせるだけだ。やはり自分は、ゲーム機というものには少し距離を置いている方がいいらしい。やっぱりスーパーファミコンなるものを買うのは止めにして、ファミコンで満足しておこう。キングコング2をまた遊ぼう。

 そしてそれから不意に、岩井田となら付き合ってもいいのに、と彼女は思った。

 問題は、彼女は別に岩井田少年のことを恋愛的な観点から好きなわけではないということだった。おそらく彼だって同じだろうと思った。二人はただの友人であった。付き合ってもいい、というのと付き合いたい、というのは別のことなのだな、と彼女は理解した。ほんのすこしだけ、藤沢少年のことを話そうかと思ったが、すぐに思い直した。それは、自分の中にしまっておこう。
「お互い、受験生だからねえ」
 ため息をついて、彼女は少し笑った。
 たはは、と笑う彼女のその表情は確かに可愛らしかった。

一言頂けると嬉しいです。
次回の励みになります。

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