晴れた日に傘を選ぶ
彼女は昔からそうだった。 例を挙げればこうだ。たとえば一緒に帰る道すがら、流れ星を見つけたとする。あ、と僕が思わず声をあげると、怪訝そうにこっちを見るわけだ。どうやら彼女は見逃したらしい。経緯説明を求める視線に、流れ星だよと告げると例の、少し目を細めるようにする不機嫌そうな表情で僕を眺め、おもむろに口を開くのだ。 「ねえ杉里くん、流れ星っていうのは、あれは、一見綺麗だけども、流れ星自身にとっては綺麗だとか綺麗じゃないだとか、そんなことを言っている場合じゃないんだよ」 彼女の言うことはいちいち突拍子も脈絡も、時には意味さえない。夕暮れも過ぎてもう夜に足を突っ込んだ川沿いの道、サイクリングロードと称して舗装された土手に自転車を押しながら聞き返すと、彼女は横顔のまま続けるのだ。 「あれは、隕石だとかが大気圏に落ちて、燃えている光景なんだよ、杉里くん。彼らにしてみれば、あれは断末魔なんだ。人が燃えて、燃え尽きてゆく姿を見て綺麗だなんて、失礼だと思わないかい、杉里くん。あんまりだよ。オニだ、悪魔だよ、冷酷無比でサディストの、ひどい加虐趣味だ。おそろしい。私は一体なんておそろしい子を育ててしまったんだろうか」 「育てられた覚えないよ」 不当な言いがかりに抗議すると、彼女は横目でちらっと僕を見る。本当はもっと抗議すべき点はある。まず、流れ星が綺麗だなんて言ったのは彼女だ。僕は相槌しか打っていない。 「ねえ、隕石について知ってるかい?」 僕が首を振ると、少しだけ愉快そうな顔になって彼女はこっちを向いた。 「隕石が地表まで落ちてくるには、厳密な突入角度が必要なんだってさ」 彼女は、どさっと僕の自転車の荷台に鞄を乗せる。何が入っているのか割合重たいそれにハンドルを取られそうになって、ぐっと力を込める。彼女は自由になった両手で、それぞれ大気圏と隕石を形作り、ぶつかる真似をして見せた。 「あんまり突入角度が浅いとこう、大気に弾かれてどこかへ飛んでいってしまうし、深すぎると今度は大気の摩擦で燃え尽きちゃうんだ。最適な角度じゃないといけないんだよ」 あたりはもうほとんど暗く、川沿いの道はすこし湿った風が吹いている。 「その誤差といったら、もう、プラスマイナスで一度とか二度とか三度とか。とにかく細かいんだ」 少し熱を帯びてきた彼女の口調に僕は聞きほれる。彼女のもともと少し低い声は、興奮するとなんだか甘い調子になるのだ。 「まあともかく、その角度をなぞった隕石だけが、こう、どずんと地面まで到達して杉里くんの家の屋根をぶちやぶるわけだ」 どずん。 愉快そうに彼女は、屋根の上に隕石が落ちるジェスチャーを何度か繰り返した。 「ああ、でももちろん杉里くんの家に落ちた隕石も勿論燃えてるんだよ。燃えて、こそげて、小さくなりながらそれでも君の頭上目掛けて、ごっちいんと落ちてくるんだ」 ごっちいん。 「……」 「ロマンチックだと思わない?」 「隕石にぶつかるのが?」 彼女は一瞬あっけに取られた顔で僕を見る。 「ばか、ああ、もう、君はじつにばかだな」 心底呆れたように言う彼女は、まったくもってどうでもいいことに博識だった。何を考えているのだろうか。ロマンチックだという根拠を説明しようとしているのだろうか。彼女は腕組みし、顎に片手を添えて夕暮れの終わった空を睨んでいる。特にいやな空気ではない。彼女と二人でいて、いやな空気になることはなかった。僕らは黙っている時の方が多かった。小さい頃からそうだ。ものすごく仲良しというわけでもないが、気がつくと病院で、一緒にいることが多かった。当たり前といえば当たり前だ。僕らはそれっきり黙って歩く。もう一度流れ星がみえないものかと目を上げるが、何も見えない。 「私は、まだ流れ星というやつを生では見たことがないよ」 彼女は唐突に言う。補足するように、まるで追いかけられるように続ける。 「いっつもそうなんだ。あ、流れ星、とか言われて探すと、もう流れきった後なんだよ。大体が、早すぎるんだよ。流れるのが。きらっと綺麗に光って終わりなんでしょう?」 「うん、まあ」 「大体、星の癖に根性がないよ」 「今、流れ星は隕石だって自分で言ったばかりじゃないか」 「う、る、さ、い、なっ」 右足、左足、一歩に一文字づつ乗せる。 「それにあんまり上ばっかり見上げて歩かないからね」 何が〈それに〉なんだろうと首をひねると、彼女は不本意そうに発言の意味を補足する。 「流れ星を見ない理由だよ」 「…ああ、なるほど」 「大体、杉里くんは歩くときに前を見ないからそうなるんだよ」 彼女は僕の額の左側にある、小さな傷跡を指差した。それは中学の頃、二人で並んで歩いていたときに出来た傷だ。並んで、喋りながら歩いていたら、なんだか判らないが彼女がずい、ずいと顔を寄せてきた。思春期だった僕はとにかく紳士的に距離をとって体を離しながら歩いていた。距離をとって歩いていたら不意に力いっぱい電柱にぶつかった。どうも彼女は、顔を寄せることによって、電柱の正面へ僕の進路をうまく誘導していたらしい。後に、「あんまり一生懸命話しているので、電柱に気付かないかと思ったら本当に気付かなくて少し驚いた」というような話を本人から聞いて憤慨した覚えがある。お陰でこっちは額を切って流血までしたのだ。傷まで残った。どうせなら少しでなく、たいへん驚いてほしいものだと思った。もっといえば、少しくらいは申し訳なくも思ってほしい。 「見てみたい?」 尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。 「何が?」 「流れ星だよ」 彼女は上唇をなめるように小さく舌を出す。人を小ばかにしているようにも見える、無防備な顔。 「うーん、べつに」 べつにってなんだ。 僕の家で人生ゲームをしよう、という話になったのはその翌週のことだった。実は、彼女には小さい頃からほとんど友達がいない。小さい頃は、仲間はずれにされていた。そして、その後は、自分から人と交わらないようになった。僕と同じだ。彼女には、友達がいない。 「ねえ、杉里くん、銀行家はどちらがやろうか」 彼女はニッパーで青とピンクのコマを切り取りながら、楽しげに日に透かす。 「私は小さい頃から、一度、この遊びをやってみたくてねえ」 うっふっふ、という笑い声と、ニッパーのぱちん、ぱちんという音が響く。ゲームのルールブックから目を上げると、すでにあらかたのコマはランナーから切り離されて、床の上に並べられていた。 「あ、なんだ、全部切ることないのに」 「え、なんでよ」 「二人でするのに全部なんか使わないじゃないか」 「いいじゃないか、いいじゃないかあ」 実に楽しそうに彼女は、二十本目のピンを切り離した。 人生ゲームというのは、説明するまでもないが、人生ゲームである。 ルーレットを回して、コマを進める、つまり双六だ。人生でありがちなイベントが、途中途中のコマに書いてある。例えば、満員電車で痴漢に間違われたので1500ドル払って一回休み。などなど。意外とシビアなコマなどもあって、毎年新しい版が発売されるという、思ったよりも息の長いゲームだ。今、僕らの前にあるのは、一体何年度版だろう。二人で量販店へ出かけて、なるべく新しそうなやつを買ってきたのだが詳しいことはよく判らなかった。 「いいから杉里くん、杉里くん」 彼女が待ちきれないように僕を急かす。結局、銀行家は僕がすることになった。最初は強硬なまでに彼女が銀行家を望んだのだが、ズルしない?と尋ねた時にいきなり黙ったので僕がすることになった。銀行家はゲーム内でやりとりされるお金の管理をする。いわゆるカードゲームでいうところの「親」だ。銀行家はそれぞれのプレイヤーの手元に、銀行から活動資金を手渡す。それが開始の合図だ。 「さあ、最初に二万円くれよ、二万円」 「二万ドルだよ」 「えーと、じゃあ、換算して、やっぱり二十一万円か、ともかくちょうだいよ」 何がやっぱり、なのか、ともかく、なのかさえもさっぱり判らないが、彼女はまるで細工物をするような慎重さで、車へピンクのピンを差し込みながら僕を促す。その姿は実に楽しそうだと僕は思った。杉里くんは男の子だから水色のピンで緑の車だ、と勝手に僕の分の車まで用意する。クリーム色のハーフパンツから伸びた足を、ひとり絡めるようにして彼女は体をゆすった。 「ち、よ、こ、れ、え、い、と、お」 無理矢理八マスに六文字分を押し込んで彼女がコマを進める。グミチョコ遊びだ。別にチョキで勝ったわけでもないのに。 「むちゃくちゃじゃないか」 「そうでもないよ」 僕が抗議すると、彼女はまったく気の乗らない様子の反論だ。会話が噛みあっていない。いつもなら逆に爽快になるくらいの屁理屈が炸裂するところなのに、何もその先がない。見ると彼女は、黙ったまま真剣にマス目を覗き込んでいた。 「杉里くん、困ったことになった」 深刻な声で、少し上目遣いに僕を見る。 「何」 「私、もうゲームを続けられる自信がないよ」 「なんだよ」 「外国人窃盗団に、麗しのキャデラックを盗まれた」 彼女の指先がマス目を指す。確かにそこには、外国人窃盗団に車を盗まれる、4000ドル払って1回休み、と書いてある。 「うん、残念だ」 「何、なんだい杉里くん、その手は」 「4000ドル」 「そんなにお金、ないよ」 「うん、じゃあ、これ」 「なに、それ」 「借用手形」 「ええーっ」 彼女はまるで本気のような、血圧の低い悲鳴を上げた。 「たかがゲームじゃないか!」 「いや、だからゲームだからだよ」 「ひどいよ、ちくしょう、資本主義は敵だ。悪徳銀行家め」 「いいから払えよ、4000ドル」 「ううう」 がっくりと彼女は肩を落とし、対する僕は淡々と自分の順番を進めた。 ルーレットを回しながら、僕は彼女のことが好きなのかもしれない、と突然思う。はじめてのことではない。正直なことを言えば、時々思う。だがそれを口にしたら彼女は怒るだろう。彼女のことを、恋愛嫌い、と言ってしまうのは少し違うかも知れない。彼女は、こわくて仕方ないのだ。僕はそれを知っている。仕方ないことだとは思うが、やっぱり彼女のそれは異常だ。いち、に、さん、と数えながら僕は彼女の指先を盗み見た。数にあわせるように人差し指だけを伸ばして、こつこつと盤面を叩いている。指先が止まるのを見届けてから、止まったコマを読み上げる。 「ぺットが立った。大人気で7000ドル貰う」 「タンマ」 彼女はすかさず噛み付いてくる。タンマって、もう、子供じゃないのに。 「ペットが立ったって何だい」 「知らないよ。ペットが立ったんでしょ」 彼女はまるで声を忘れたように口をあけて僕を見る。ようやく思い出したように声を絞り出した。 「そんな横暴ってあるもんか」 「なんだよ」 「どうして私は何もしてないのに外国人に車を盗まれて、君はペットが立った程度でキャデラックの倍近いお金をもらえるのよ」 「だから人生ゲームって言うんじゃないか」 「?」 「人生は理不尽なものだよ、大体においてさ」 一瞬彼女はきょとんとした顔になって、それから僕の頬をつねった。いたいよ、と不明瞭な声で抗議すると、彼女はまるで傷ついたような顔でもう一度指先に力を込めた。 私さ、と彼女は窓の外を見た。そっぽを向いたまま彼女は、自分の車の助手席へ、水色のピンをさしている。結婚の選択を迫られるマスに止まったのだ。そこでは、誰しもが結婚するかしないかを決められる。 「本当の私は、結婚はしないと思うよ」 それまで饒舌だった彼女は、言ったっきり無言でピンをさして、ルーレットを回した。結婚したプレイヤーは、出た目によってご祝儀がもらえるのだ。かろかろとルーレットは回り、そして止まる。僕は無言のまま、3000ドルを彼女に手渡した。厳粛な面持ちで彼女はそれを受け取り、厳粛な様子で車を盤面に戻した。結婚について、僕はそれ以上追及しない。彼女が追及されたくないのを知っているからだ。 「私の」 彼女は、さっきより遠い口ぶりでもう一度何かを言いかけた。 「いいや」 投げやりに髪を払いのける仕草で、僕は彼女の考えていることを知る。 彼女には、妹がいた。今はもういない。それだけだ。僕にも弟がいた。今はもういない。それだけの話だ。彼女は妹のことを考えるとき、まるで記憶ごと振り払うように髪を払いのける。きっと今も、彼女は妹のことを考えている。少し遠い目になった彼女の横で、僕は、僕の弟のことを考える。彼女の妹と同じように、僕の弟も、今はもういない。僕たちは隣同士で、遠く、遠くへといなくなってしまったそれぞれのきょうだいのことを考えていた。生まれたときすでに、神様から、決して大人になれないと決められていたきょうだいのことを考えていた。 「僕は、出来れば結婚したいな」 遅れてたどり着いた結婚のマスでピンクのピンを差す。別に挑発するつもりではなかったのだが、こっちへ顔を向けて彼女が座りを直した。人生ゲーム越しに僕をまっすぐに見る。 「そうかな」 「…そうだよ」 まるで挑発するような言い方に一瞬怯み、それでも言い返すと即座に追及が返ってきた。 「なんで」 追及する彼女の目は、遊びの延長線みたいな目つきではなかった。ひどく大人っぽい目だ。曖昧な返答を許してくれそうにない目つき。彼女のスイッチが入る瞬間を、僕はまだ把握できないでいる。 「だってさ」 とりあえず接続詞をつぶやき、無理矢理それに続けて返事をしようとしても、口がうまく回らなかった。茶化したら彼女はきっと腹を立てるだろう。一般論にも怒るだろう。だったら言おうと思った。僕だって、他の人と同じような人生を送ってみたい。そう言おうと思った。弟のことを忘れて。メンデルのえんどう豆のことを忘れて。僕も、皆と同じ、疑いのない人生を、僕も。テレビドラマのような、平凡で波風のない人生を、僕だって。 「僕はさ」 口を開きかけて、やはり僕は一瞬言いよどむ。 「僕だって、」 「君は、人生というものをしらなすぎるね」 まるで無理矢理かき消すように遮って、彼女はつんと顎をあげた。はっと僕は口をつぐむ。なぜだか、ほっとした。どうしてほっとしたのか判らないまま、僕は彼女の鼻の頭を見る。彼女はまるで演説するように、立てた片膝へと腕をおいた。横柄なポーズ。饒舌な、本当に考えながら喋っているのか判らないくらいに流れる美しい、彼女の言葉のリズム。 「人生というものはさ、流れ星と同じなんだよ」 「…」 「摩擦して、燃え上がって、ぶすぶすいいながらさ、君の頭めがけて突っ込んでくる隕石も、遠くに住む人から見れば、あら、綺麗な流れ星、程度のことなんだ。そういうものなんだよ。遠くにあるから綺麗だと思っていたら、実際は君の脳天をカチ割る隕石だってなんてのも、よくある話なんだ。だからね、結婚が幸せだとは限らないよ、杉里くん」 彼女の声が体に染みてゆく。声と調子に聞き惚れながら、でも、今のたとえ話、「よくある話」ではないよな、とひそかに僕は思った。 「なんだなんだ、杉里くん、なんて顔を」 彼女は腕組みをして、上げた顎をゆっくりと戻した。斜めに僕を見る。慎重な、水の底を覗くような目だった。 「ダメだよ、あとで取り返しのつかないようなことを言っては」 僕が言おうとしていたことがなんなのか、判っていて諭すような口調ではなかった。ふざけた口調でもなかった。ただ彼女は、まるで薬缶に触ろうとした子供をたしなめるように微笑んで、静かに首を振った。 「そういうのは、もっと大人になってから言えよな」 いつもより低い彼女の声。 続く彼女の咳払いまで、部屋の中は妙な緊張と沈黙でいっぱいになっていた。咳払いの後、うって変わって彼女はとん、と盤面を叩いた。 「どうでもいいけど、生命保険、入るの?入らないの?」 少し意地悪そうな、きらきらした目だった。彼女の声で一編に空気が変わる。 「続けようよ。ほら、人生は続く、人生ゲームも続く!」 結婚のマスでは、幾らかのお金を払って生命保険に加入することが出来るのだった。いいや、お金もったいないし、と拒否すると彼女は勝ち誇ったようにひらひらと自分の保険証書をかざした。彼女はさっきの結婚のご祝儀で生命保険に入っていた。 「杉里くん、いいかい、人生に必要なものというのはだね、晴れた日に傘を買うようなものなんだよ」 「傘?」 「必要になってから慌てて探したって、ほんとうに気に入るものなんて見つからないんだ。だから、晴れた日にこそ、お気に入りの傘を捜してお店を歩いておくべきなんだよ。わかるかい、杉里くん、わかんないだろ」 機嫌よく言い放って、彼女はくちびるに保険証書をあてるようにした。 「君は、ばかだからね」 そして、んふふ、と含み笑いをして、気分よさそうに彼女は笑った。 「うわあっ」 止まったマスを見て彼女は叫び、腕を少し乱暴に後ろについた。それから体を後ろへ倒す。どさっ。天井を仰ぎ見るその喉。息を吐き出して上下する胸。 「いいよ、これ以上、子供はっ」 ついに三人目の子供が彼女に宿ったのだ。体を起こしながら、彼女は目をつぶって首を振った。 「もうこれ以上、名前、思いつかないよ」 「名前つけてないじゃないか」 「いつだって心の中ではつけてるよ、名前」 いつだって、って、いつだ。 「まったく、産むほうの気持ちにもなれよな」 言いながら、彼女はまるで若い妊婦のように平たいお腹をさする。乱暴な口調とあいまって思わずなんだか笑ってしまった。僕らは、ようやく生命のことについて、冗談を言えるようになった。 「でも、まあ、子供は、どんな子供だって、かわいいよ」 「そうかな。私に似たら、私は嫌だよ」 笑うところだったのだろうか。曖昧に頷いたら何か言いたげにまじまじと顔を見られた。どこが嫌なの?とでも言いたげな瞳。否定してほしいんだったら最初から言うなよな、と思ったけれど口に出せない。 僕はたじろいでフォローのように付け足す。 「まあ、僕だったら嬉しいと思うよ、そういうの。似てたりとかさ」 「何が?」 何が、ってなんだ。 盤面をにらみ、お茶を飲んでから彼女はいきなり随分優しい声で笑った。ふふ、だなんて、実に女の子らしい笑い声だった。 「しかし、これは、大人になってからやったらきっとすごく面白いんだろうね」 「そうかな」 僕が懐疑的なことを言うと、そうだよ!と、まるでびっくりしたように彼女は高い声を出した。 「だって、やっぱり私たちはまだ子供で、学生じゃない。人生はどんなものだろうかと考える段階で、まだ就職もしてないし、結婚だって、車の免許だって持ってないんだよ」 「…そうだね」 「でも、大人になって、例えばいつか結婚して、ああ、あの時結婚していなかったらどうなったかな、子供がいなかったらどうだろうか、なんて、考えたり後悔したりするよりもさ、こうやって人生ゲームをやって、そりゃゲームの中だけの話になるけど、ゲームの中で結婚しないようにすればいいじゃない。その方が健全だよ」 彼女が何を言いたいのかはよく判らなかった。だが彼女は、健全だよ、と少し低い声で繰り返し、それから髪を投げやりに後ろへ払った。 「とりあえず、浮気現場が見つかった分の12000ドル払う」 彼女は頬を膨らませて、僕へ12000ドルを差し出した。 「これって慰謝料なのかな。それとも罰金?」 さあ、どっちでしょう。 「でも、なんか決定的だな、金額的にも、シチュエーション的にも」 独り言のような彼女の呟き。 結局人生ゲームの最終成績は、二人ともフリーターのまま、お互い結婚だけして、それぞれ家は持たず、僕は選挙に出馬したことを、彼女はベストセラーの恋愛小説を出版したことだけをめぼしい思い出に、ゴールへたどり着いた。生命保険が必要になるマスには二人とも止まらなかった。さらに言えば、遅れて着いた僕の方が最終的に貯金が多く、勝敗と着順がひっくり返る結果となった。彼女はぶつぶつ文句を言って、挙句、貯金ではなく子供の数で勝敗を決めようとまで言い出した。ちなみに子供の数は彼女が三人、僕は一人だった。 「起伏の少ないゲームだったけれど、これは、いや、これこそが、言ってみたら人生みたいなものなのかもしれないね」 うっかり僕がまとめると、彼女はううと唸った。私の方が断然うまいこと言える!と僕をにらみ、彼女は盤面の上空で何かを握るような動作をした。空を掴んだその手を、揺らす。 「私、今から人生について、すごい格言を言うよ」 「どうぞ」 「人生はお金じゃないよ!」 大人気ない彼女に僕はうっかり声を上げて笑い、自分で言っておいて彼女も笑った。 僕は彼女の笑顔を見つめながら思う。僕らはきちんと幸せに向かって歩いているだろうか。僕らは今、いったいどのマスに止まったのだろうか。 生命保険に加入した時に彼女の言った、晴れた日に傘を探すというのが、実際には何の比喩なのだか、実はあまりよく判っていない。だが、だからこそ、とりあえずは傘を探そうと思う。再来週あたりまで、週末はずうっと晴れているらしい。だから、とりあえずは現実の傘を探そうと思う。僕も、そして出来るならば彼女も気に入るような、手触りのよく、広げた時の音もさっぱりした、はっきりした色の傘がいい。 なんだか車のとおるような音がしたのでふと窓の外を見ると、さああ、と夕立が降り始めていた。雨の音以外聞こえなくなる不思議な静けさ。彼女は気付いて僕の目線を追いかける。 「なになに、流れ星?」 言いながら窓の外に目をやって、なんてことだ、傘持ってないよ、と彼女が悲痛な声を上げた。もし今、このタイミングで、晴れた日に傘を選ぶ話なんかを持ち出したら、揶揄されたと思って彼女は腹を立てるだろうか。想像したらおかしくて、少し笑った。 |
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