reviews/sammary

 

 

 「ひとの気持ちなんて、伝わるわけないんだよ」

 あるとき、友人がこう言った。ずいぶんと深い話もしてきた仲だし、喧嘩していたわけでも何でもない。仕事で雑誌の記事を書いている私が、「伝えることって難しいよね」と言ったところ、返ってきたのが冒頭の台詞だった。それもそうだな、と妙に納得したことを覚えている。

 気持ちというのは、幾千の言葉を用いても、同じ体験を辿っても、すべてが伝わるものではない。ましてや、その感情や精神を切り取った一部分から、どれだけの世界を伝えることができるだろう。だが、一部分だからこそ、かえって、新しい何かが伝わることもある。それを証明したのが、この写真短歌集「Still life」だ。

 「Still life」は、田口悦子氏による写真連作に、八人の歌人がそれぞれ歌をつけるというコラボレート企画である。心の一部分から生まれた写真から、新たな心が生まれる。そして、それぞれは――写真と短歌であったり、別の歌人の短歌であったりするが――共鳴したり、補完しあったり、あるいは感情を増幅したりして、独自の世界を生み出すのである。

 ひとの気持ちは完全には伝わらないのかもしれない。それでも、その気持ちを受け止めるのは自分自身なのだ。

 

 それでは、この写真短歌集の作品の「気持ち」は、どのように受け止めればいいのか。その答えは、作者たちにはそれぞれの回答があるかもしれないが、私はあえて、「読み手の自由」だと言ってしまいたいと思う。

 写真短歌集は、芝居に似ている。写真という台本があるとはいえ、役者である歌人は、それぞれの個性と技量で演じていく。それを見ている観客は、芝居の流れを重視するも良し、役者の表情に注目するも良し、役者同士の掛け合いを楽しんだっていい。さらにいえば、楽しみ方が自由であればあるほど、作品集自体の重みは増してくるはずだ。

 

 

 さて、前振りはこれくらいにしよう。今回は、作品評というよりは、写真短歌集の楽しみ方を私なりに解釈し、一例として提示しようと思っている。

 

 楽しみ方は、大きく分けて三つある。

1・写真からのアプローチ、2・短歌からのアプローチ、3・コラボレーションからのアプローチ、である。

 

 まず、「写真からのアプローチ」について説明しよう。一枚の写真から、どれほど世界が広がるのか。まず、一例を示そう。

 四十枚の写真のうち、もっとも多く歌がつけられているのは31番目の写真である。マンションのベランダから見える、ありふれた日常の一コマ、といった風情の景色が写っている。ぶら下がった洗濯バサミが、夕暮れの空に揺れている。この、なんでもないようにみえる瞬間に何かを感じ、写真家はシャッターを切ったのだろう。実際、歌人たちもまた、そこから多くを感じ取ったわけだ。

 とはいえ、よく見ると、そこに現れる歌は、じつにさまざまな表情を見せるのである。ここでは(誠に勝手ながら)三つのパターンに分類してみよう。

 

1・写真分析型

 

  日没と一緒に踊るフラメンコ リズムをきざめ洗濯ばさみ

  闇がつつむのをよろこびてベランダに取りのこされる洗濯ばさみ

 

 この二首はともに、写真に写る洗濯ばさみについて詠っている。。このように、写真に写っているモノまたはヒトからのメッセージを読み取る歌を「写真分析型」としよう。不思議なことに、どちらの歌も洗濯ばさみが楽しげに見えているという内容であることは興味深い。

 

2・写真感情型

 

  稜線は深くなだらか君といる部屋であるから見えるのだろう

  もしかしてわたしは泣いていたのかもありふれた日々にまた灯が点る

 

 この二首は、写真を見たことによって、作者自身がその写真に入り込み、感情を生み出して詠んだ歌といえる。こうした歌は、「写真感情型」と呼ぶことにする。「稜線」「灯」など、写真から具体的な言葉を拾い上げ、新たに感情を加える。ただし、前者は幸福なカップルの部屋、後者は自分ひとりの部屋、とシチュエーションが違う。このように、ひとが「同じものを見ているのに違うものが見えている」ことに、純粋な驚きを感じさせられてしまったりすることも、なかなか面白いものである。

 

3・短歌独立型

 

  芽キャベツのひとつひとつを湯に落としつつさよならを受け入れてゆく

  放浪の夢に疲れて戻り来し景色がきみの不在を告げる

 

 この二首は、写真から惹起されたイメージをもとに短歌を詠んでいるため、それぞれが独立して存在している。こうした歌を、「短歌独立型」とする。独立といっても、バラバラという意味ではない。特に、「芽キャベツ」の歌は、写真には写っていない部屋の中のキッチンで、誰かが料理をしているという状況を詠っている。写真に写る夕暮れの物悲しい雰囲気と、キッチンで芽キャベツを涙のように、ぽちゃん、ぽちゃんと落としていく女性の姿がリンクして、奥行きを出している。

 どの描き方が正しいというわけではなく、あくまでも楽しみを広げるためのエッセンスだと思っていただきたい。目の前に見える写真の景色と、そこに写りきらなかった(と歌人が感じた)別の景色を堪能することは、この「Still life」の醍醐味といえる。

 

 たった一枚の写真、たった一行の歌が、あるときは共に、あるときは互いの世界を抱えることで、これだけ広がりある世界をつくり出せるのである。このコラボレーションのもっとも素晴らしい点の一つは、この「多面性」であるといえよう。

 

 また、写真によっては、歌人たちがあるパターンに寄ってしまうこともある。たとえば、8の写真は四首あるが、どれもコーヒーを飲んでいる男(あるいは男と一緒にいる人)を詠っているため、すべて2のパターンといえる。こういう場合も、どういう場面を想定して詠まれたのかといった違いを想像しつつ、比べて味わうのも楽しさの一つである。

 

 

 一方、今度は写真ではなく、「短歌からのアプローチ」について触れよう。

 まず、36番の五つの歌を、写真を見ないで読んでほしい。

 

  <私たちは法定速度を守ります> 敗走しているようなトラック

  もう一度会うならふたりで歩きたいやわらかな風にふかれる通り

  ひとならぬものの楽しさ風戯え(かぜそばえ)君もどこかで楽しむだろう

  クラクションに消されてしまうたそがれは渋滞であればきっとさびしい

  群集にまぎれていれば怖くないひとりを愛しきれないことも

 

 この五首を読んだとき、同じ写真から読まれたと知らなくても、似たような画を思い浮かべることができないだろうか。「法定速度」、「トラック」、「通り」、「クラクション」、「群集」などの言葉を拾うと、自然と都心の渋滞した大通りのイメージが沸くことだろう。

 

 だが、五首が単独、あるいは別の連作に組み込まれていればどうだろう。

 やや乱暴ではあるが、同じ作者の作品を、36番の歌と前後するかたちで、番号順に抜き出してみることにする。

 

 例1

 35 これからは自由にしていい自由という束縛から自由になれない

 36 <私たちは法定速度を守ります> 敗走しているようなトラック

 37 数百の名をもつものとして雲のすべては水であるということ

 例2

 32 横顔にマフラーを巻き人ごみにまぎれるきみよ かなしからずや

 36 クラクションに消されてしまうたそがれは渋滞であればきっとさびしい

 39 やがて線路は銀河につづきワープせり地球を小脇に抱えたままで

 例3

 34 廃屋にあかり灯して呼び寄せる<理想の家族>という名の家族

 36 群集にまぎれていれば怖くない ひとりを愛しきれないことも

 38 いつの日か遠くの海に捨てにゆこう遺伝としてのこのさびしさを

 

 三例とも、連作に入っても無理のない流れだ。それどころか、新しい輝きを放っている。写真と連動することで、番号は飛んでいても、歌も一つの流れをつくっていると感じられる。これがまた、通常の連作とは違う、心地いい「飛躍」もある。たとえば例1の36→37、例2の36→39、例3の34→36は、適度な飛躍感が心地よい。「コラボレーションだからこそ生まれた連作」という観点から、作者別で作品を見てみると、新たな楽しみ方が生まれるであろう。

 

 

 では、三つめの「コラボレーションからのアプローチ」という楽しみ方について書こう。

これは、もっともアクロバティックで、鑑賞者なりに無限の楽しさが生まれるアプローチである。写真、短歌、それぞれを自分で編集してしまうのだ。そして、自分で何十、何百のドラマを想像する。

 

 では、ちょっとやってみよう。14番から18番までの歌から一首ずつひいてみる。

 

 A:

  うまく言えぬ気持ちの陰に嘘をつき完全なはずの思いを壊す

  まずいつか別れが来るということを受け入れてから愛しはじめる

  翳りつつその時時の影を生む花瓶はばらを容れつつ立ちて

  閉館の真近い図書館足早に出る待ち合わせあるかのように

  あっさりと君を見送るきぬぎぬのぬくもり欲していたのは私

 

 この5首は、同じ作者もいるが、ランダムに抽出したものだ。写真と合わせてみていただきたい。別れを予感させるような一つのドラマがこの5首から読み取れるだろう。

 

 では、この組み合わせならどうか。

 

 B:

  桜時、君のケーキを平らげてわたしの中に満ちてくる月

  恋人がこいびとになる カモミールティーがねむりを誘う速度で

  カーテンで雨を見えなくした部屋に白い下着の明るさはあり

  空の色の青の絵の具の114種類から選ばないといけない

  吾よりも先に起きだすことのない君に本当は安心している

 

 この組み合わせだと、どうやら幸せそうな恋人同士のものがたりのようにみえる。

 

 同じ写真について、同じ順番で詠んだ歌なのに、組み合わせをたがえただけで、全く違うストーリーが生まれる。しかも、A、Bそれぞれに同じ作者の作品が混ざっていたりもする。これは、「Still life」のように、複数人の歌人と、テーマとなる写真がなければ成立しない。今までにない全く新しい表現方法であるといえよう。

 

 

 今回のようなコラボレーションは、写真と短歌の世界に新たな地平を開く試みである。将来的には、写真だけでなく、動画やイラストと短歌、あるいは写真と詩、俳句といった組み合わせのコラボも現れることだろう。

 個人的には、写真と短歌は「一瞬を切り取る」という点において、非常に近い存在であり、親和性の高い芸術であると考えている。こうしたコラボレーションがさらに広がっていくことを、私は大いに期待している。

 

 ちなみに、英語の「Still Life」は、「静物」という意味である(私は恥ずかしながら、今まで知らなかった)。

「動」に込められた「静」を写真で切り取ることで、短歌がまた「動」を与えたり、さらなる「静」を与えたりしていることの意味深さも、付け加えておこう。

 

 

 ひとの心の一部分の重なり合いが、あたらしいこころを生み出す。読み手が、作者たちの伝えたかったなにかを、読み手なりの方法で受け止めることが、表現者たちに対する敬意を表する最高の方法だと思う。

 

 最後になりましたが、こんな素晴らしい作品集にコメントをさせていただけたことを、本当に嬉しく思っています。

 

 みなさま、素敵な作品を、本当にありがとうございました。

 

(江國 凛、歌人)

 

 

 

レビューへ | トップへ  |  最初のインデックスへ